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第3回起業塾 「事業をするにあたっての基本的な考え方」

-  宝くじに当たって幸せになった人は驚くほど少ないのだ。努力無き幸運は人を幸せにしない。

-  自分の「やりたいこと」と、「やれること」の間にどれだけのギャップがあるかを時々チェックする必要がある。夢はどこまで追いかけても所詮は夢。その夢に架け橋をかけて現実の世界に持ってくるのは「あなたのやれること」即ち「あなたの能力」である。

- 『Be Innovetive』ということについて。Innovation自体は決して難しいことではない。

要は「他人のやってないことをやる」であるば、これが往々にして誤解されている。決して難しい話ではないのだ。今、そこに見えている他人のビジネスにちょっとひねりを与えるだけでこれまで市場になかったものに変身する。僕の経験から言うと;

ニットの製造販売のケース: それまで香港にはなかった提案型のメーカーを目指した。

PRADAのアジアでの展開について: できるだけ多くの商品群を値引き販売なしとした。当時シーズンの終わりのバーゲン・セールは、多くのブランドにおいて常態化していた。

Citysuper: 他のスーパーが最大の顧客が存在する「中流とその下」のマーケットを目指しているので、我々は「中流とその上」を目指した。結果として通常のスーパーが目指すマーケットより、格段に小さいマーケットに対応する形となり、自分たちがある程度成功することで、新規参入を考えるケースが限定されることとなり、不必要な競争が回避される市場となった。

- もっとクッションボールを使おう。思考がワンパターンにならないように、あらゆる角度から物事を考えるように。「押してダメなら引いてみよ」の現代版と言っても良いかも知れない。例えば、対中直接投資からビリヤード方式に転換、等。

- 「サテライト・カンパニー」という考え方。

求心力と遠心力のせめぎあいが好結果を作る。ただし現在はFenix Group経営陣の高齢化により、縮小期に入っている。ところで、この考えは一体どういう状況から生まれたのか?

☆ 60~70年代の香港の社会は、大ざっぱに言うと富裕層と貧困層の二層社会であった。即ち、中流階級が未だ形成されていなかった時代であった。だから、若い世代の人たちの間では当然のように「起業意識」が非常に高かった。

☆ 香港社会において、地場資本の大企業はまだ多くなく、大手企業はそのほとんどが当時の宗主国の英国系であったが、星の数ほどあった中小企業経営者の基本スタンスは「もうけはオーナーの総取り」であったため、若者たちは「いつかは自分も」という気持ちが強かった。だから、ひとたび起業するや、がむしゃらに働き、実績を作った企業が無数にあった。また、一つの業種から別の業種への変身も、日本人の常識では考えられない程早く、何度もびっくりさせられた。

☆ そういう状況の中で、「日本に有って香港に無いもの」を色々と自分の会社に取り込んでいった。例えば「ボーナスの支払い」がそうである。一般的に旧正月の直前に1ヶ月分が支払われていた「ダブル・ペイ」以外にボーナスらしきものはなかったが、Fenixでは70年代の半ばあたりから業績に応じてボーナスを支払い始め、70年代に香港では異例と言っても良い6ヶ月分のボーナスを8月と12月に分けて支払ったこともあった。

☆ 若かった当時、何とかしてぼくなりに自分たちのビジネスを拡大したかったので、新しい商材が見つかると社長になりたい人を、社員の中から一本釣りで吊り上げては新しい会社の社長に据えた。もちろん新社長には株主にもなってもらい、持ち株比率は資本の額により0~40%まで色々だが、2005年頃には資本参加させた企業が6社、そうでない会社が8社、それに加えて各子会社立ち上げた「孫会社」が合計20社、そして基本的には本体とは別行動のCitysuper グループ10社を加えて40社を超える企業グループになっていた。

☆ 次々に子会社を作って、一番驚いたことは、昨日まで一従業員だった人がチャンスを与えられて起業した途端に、びっくりするほど仕事に打ち込んで働くということだった。仕事への余りの打ち込み様に、ぼくは何度も「ちっとは身体のことも考えてスローダウンしろよ」と言ったものだ。

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