定例会;10/11(木)【福光 博一氏が語る★香港に最初に定住した4人の日本人の物語】

講演は静かに始まりました。

「香港在留邦人173年の歴史は、取りも直さず香港和僑の歴史でもあります。香港に最初に定住した日本人は、記録にある限りでは1845年に定住を開始した4名の漂流民であると言えましょう。和僑の定義は中々に難しいのですが、その動機、理由は問わず、海外の一定の地に中長期的に定住して活躍し、生業を立てている日本人を指すとすれば、彼ら4名は正に香港和僑の嚆矢といえるのではないでしょうか。」

講師の福光氏の話し方は、ゆっくりと重くどっしりと、昔の和僑を語るにはまさに説得力のある声でした。

ここに少しだけ、物語の概要を紹介します。

まず一人目、海上漂流ののちフィリピンに漂着した原田庄蔵。マニラで2年間過ごした後、マカオへ送られました。そこでドイツ人伝道師の家で居候となり、同じく居候していた漂流者3名と共にモリソン号に乗せられ、江戸へ向かいます。しかし、当時の日本は鎖国を守るべく異国船の無二念打払令を厳守。交渉の余地なく退却し、再びマカオに戻りました。これが私達が日本史の授業で習ったあの「モリソン号事件」です。

帰国を諦めた4人は共同生活を始め、1845年にイギリスの植民地となって開発が急速に進む香港へ新天地を求め移住しました。香港へ移住後、4人は各々の道を歩み始めます。

原田庄蔵はクリスチャンに改宗し英語を習得、翻訳家として活躍しました。また、洗濯業、裁縫業を幅広く 営み、実業家としても大きな成功を収めました。その後、カルフォルニアで金鉱が発掘され、中国人苦力10人ほど引き連れて金鉱採掘のため香港とアメリカ往復していたそうです。彼は今の上環のあたりで、アメリカ系中国人の妻と息子の3人でかなり裕福な暮らしをしていたとあります。まことに小説の主人公のような素晴らしい男、まさに英雄。しかし、原田庄蔵がいつ死んだのか、家族に関しての記録も一切なく、墓もどこにあるのか不明のままです。

二人目の成功者は力松。漂流した時はまだ13歳でした。力松もまたクリスチャンに改宗してアメリカ人女性と結婚し、諸国評判記を出版していた出版社に勤務、時にはイギリス艦隊に乗りこんで、通訳の仕事もこなしていました。しかし力松も庄蔵同様、死亡した歳や家族については不詳です。

残りの二人の香港での生活は、恵まれないものでした。熊太郎は、無口で病気がちで、香港へきてまもなく病死したと伝えられています。また最後の一人、寿三郎はアヘン吸引者となり1853年に死亡したとあります。この寿三郎は日本にいる父と兄へ手紙を送っていますが、そこには「故国を思い悲しむばかり」とありました。精神的に弱く、庄蔵や力松のように逞しく香港社会へ飛び込んでいくことができず、アヘンに溺れていったのでしょう。和僑にはなれませんでした。

これが1845年、今から173年前に始まった4人の日本人の物語の概要です。もちろんこれだけではありませんが、これを聞いただけでも鎖国をしていた日本人がその時代に海外へ出るというのがどれだけ大変なことであったか、想像ができますね。そして当時のこの物語を知る人が今、何人いるでしょうか。

また、庄蔵にしろ力松にしろ、その子供達は香港で生活し、現地の女性と結婚して子孫を繁栄させているとすると、その子孫たち、さて、、どこに?和僑の子孫は今いずこ?もしかしたら今日、同じ電車に乗っていたかもしれません。これもロマンですね。

講演後は、講師の福光氏へ御礼と、今回参加してくださった皆様全員で、乾杯。たくさんの方にご参加頂きました。ありがとうございました。

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