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荻野会長 香港在住50周年記念講演会


タイトル

荻野会長 香港在住50周年記念講演会

開催日時

8 月 06 日 (土)

内容

「香港に50年在住して」

- 1966年8月6日にカイタック・エアポートに降り立った。生まれて初めての飛行機、初めての外国。

- チェックインしたのは、Carnarvon RdとCameron Rdの角にあった「Grand Hotel」。勿論2流のホテルであったが、今はもう無い。一泊HK$30.- ぼくの上司は一流のAmbassador Hotelで、一泊HK$70.-だった。当時はUS$が360円の固定相場だったし、HK$の円換算はHK$1.00 = 70だった。今朝のレートはHK$1.00 = 13.10だから、5分の?以下である。US$も3.6分の?。

- タクシーの初乗り2KmはHK$1.00。日本ではすでに200円超えていたと記憶している。

バス代: HK$0.10

スターフェリー: HK$0.25

事務所兼住宅で借りたチュンキン・マンション:900 s.f. 2ベッドルームでHK$500/月。

バナナ: 1房(10本くらい)HK$1.00 日本ではまだ自由化されてなかったので、一本が5~60円だった記憶がある。

とにかくモノの値段が安かった。香港では、電化製品をはじめとする生活必需品や、いわゆる贅沢品である「時計、ライター、宝石、ブランド商品など」が日本よりずっと安く、日本の取引先から来客があると、滞在時間の三分の一くらいは買い物でした。おかげで、九龍の主だった店では結構な顔となり、特に時計屋は、最終的に信用できる一軒に絞ったので、随分と高い時計をそこで買ったことを覚えている。それは、ぼくにとってもとても良い勉強にもなった。

- 一体どれくらいまけてくれるのか?その限界は?商品やブランドによって、みんな違うようでした。ある時、島津製作所の創業家のお嬢さんが来られた時には、パテック・フィリップの腕時計を気に入られたので、結構時間をかけて値切ったら、日本のカタログに出ている日本上代の65%引きまで下がり、本当に喜ばれた。

また、ウイスキー、ブランデーといったものも、日本の半分以下の値段だったし、免税で買えばもっと安くなった。だから、日本から来た人は、ほとんど全て、一人3本までという免税範囲で目一杯買って帰ったものだ。先日、大阪の両親のいた部屋で、ぼくが1966年の年末に買って帰ったブランデーを見つけた。オヤジは酒好きだったが、全く飲まれていなかった。

最近、香港の富裕層の方に聞いた話。「1960年代の中ごろから、これまでの50年間でこの香港で最も値上がりしたものは何か判りますか?」不動産?NO ! 株式?NO ! さて何なんだろう?答えは、骨とう品と美術品ということだった。確かに、当時ピカソのちょっとした絵は5千万円~1億円と言われていたが、今年の初めにNYのオークションで250億円という破格な値段が付いたわけだから、確かにすごい倍率となる。

- 香港で、今は全く見られなくなったものは幾つもある。ダンスホールもそうだが、ロシア・レストランもその一つである。当時は、香港の繁華街、、おそらく10件くらいあったと思うけれど、今残っているのはない。全て、亡命してきた白系ロシア人が経営していたと思うが、どの店に行っても、そこそこおいしいんだけど、メニューがほとんど同じという難点があった。

ランチ: 前菜(ザクースカ)または(ボル・シチ)とその日のメインコースを2種類の中から選ぶ、コーヒー又は紅茶。HK$4.00、前菜もスープもという場合は、HK$5.50

ディナー: 前菜、スープ(ボル・シチ)、その日のメインコースを3種類くらいの中から1品、デザート、コーヒー又は紅茶。HK$7.00

アラ・カルトもあったが、ほとんど注文したことが無かったので、記憶に残っていない。

1967年の夏、香港で暴動が発生した。きっかけは、7月の熱帯夜に、冷房のはいって無い政府の住宅に住んでいる人たちが、あまりの暑さにみんな表に出て涼もうとした。しかし、人が多すぎるという事も理由になり、あちこちで小競り合いが始まる。それをパトロール中の警察官が止めようとしたとっころ、今度は景観と群衆の小競り合いとなり、警官は多勢に無勢で身の危険を感じたため、応援を要請する。トラック数台に乗った、百人くらいの警官が到着。にらみ合いに割って入ったが、住民側は収まらない。真夜中を超えてもにらみ合いが続いたが、結局2時か3時に人が減り始めて、明け方には、元通りになっていた。しかし、この事件はしこりを残した形になったらしく、次の日から、香港内のあちこちで、警官と住民の間で同様の小競り合いが始まる。そこに、中国側の意向を受けた連中が、香港の新華社の事務所を根城に、あちこちで暗躍し始め、ついに英軍が出動するというところまで発展してしまう。ピークには、走ってきた車が道路上に赤い包みを4つ5つ置いて行ってしまうというお事態が発生。後続の車は、これらの包みが手製爆弾である可能性があるということで、すべてその手前でストップ。爆発物処理班が来て、電極を差し込み、皆が離れてから電気を通すと、10個に一つくらいが「どっカーン」であった。ぼくも、九龍のTSTのビルの15階にあった一番古い日本料理屋から、この処理を見たことがあり、その時は、炎がビルの5-6階まで届く、すさまじい爆発を見ることになった。

噂では、英国人の警察官一人を殺したらHK$5万ドルの賞金が、中国伊仁景観だったら3万ドルの賞金が出ると、まことしやかにささやかれていた。これらの情報は、すべて香港の新華社から流れていたという。しかし、英国人警察官を狙って投げた手製爆弾が、英国人に当たらず、その横を歩いていた中國人の少女のそばで爆発し、その結果その子が無くなるという事が起きた後、この暴動は急速にしぼんでいったのだった。

この暴動は、数か月間の間続くのだが、香港の人たちに政治意識が無かったため、中国が新華社を通していくら宣伝活動しても、ローカルの人たちの中に大きなうねりを作ることができなかったというのが実態では中たかと思っている。

また、Yau Ma Teiの夜店を見に行ったとき、そこでも警官4人と、200人くらいの住民の言い合いにらみ合いを見た。あの時ほど警官が気の毒に思えたことはなかった。彼らも生きた心地がしなかっただろう。

この期間中、不動産価格は暴落し、九龍の高級住宅地にあるマンションを、ぼくの知り合いがちょうどその頃買ったけれども、1500s.f.でHK$8万ドルだったとか。ウソのような値段だった。

その次の年は、今度は水飢饉だった。夏、雨が降らないと、川の無い香港はたちまち水不足となる。当時は、英領香港と中国の間には契約があり、9月15日以降香港は乾季に入るという事で、中国から水がパイプラインを通して送られて来るというものだった。勿論香港はその代金を払っていたのであるが。しかし、98年は、夏の間もほとんど雨が降らなかった。結局給水制限は、もうこれ以上ないというところまで行ってしまったのだ。一番のピーク、それが何と数週間も続くのだが「4日に一回、2時間のみの給水」だ有った。その二時間は、地域により異なったのだが、自分のところの給水時間には、ほぼすべての人が自宅に帰ったものだ。先ず風呂に入り、洗濯をし、台所の洗い物を全部やり、その後はありとあらゆる器に水を貯める、だった。そして、次の4日に備えたのだ。一番効果的だったのは、バスタブに水を一杯ためておくことだった。バケツや、夜間に幾ら貯めても知れているので、これが一番の貯水法だった。

- 九龍鉄道の終着駅は、今のHung Homではなくて、スターフェリーの乗り場、時計台のすぐそばにあった。日中の国交は1973年の田中角栄首相の訪中と国交回復の成立がまだだったので、中国を訪れる日本の要人はすべて香港を起点として、そこから九龍鉄道で廣東まで行き、そして飛行機で北京に向かったのである。その頃の外務大臣であった、藤山愛一郎氏もそのルートで北京に行き、同じルートで香港に戻り、香港から日本に帰国された。田中総理の直後だったか、ソニーの森田社長が上海に行くべく、自家用機で乗り込もうとしたが、断られたということもあった。この駅は、70年代の後半に、現在のHung Homに移転した。

- スターフェリーはまだあるが、カーフェリーはもうほとんどなくなってしまった。昔は車で九龍と香港の行き来するのは、行きも帰りもカーフェリーを使うことが条件になるので、下手をすると半日仕事になることを覚悟しなければならなかった。それが今では、3本の海底トンネル、地下鉄のネットワークの整備のおかげで、香港内の端から端まででも、いとも簡単に移動できるようになった。

- 上海風呂:上海から香港に来た人たちを中心に、一部の日本人も通っていた風呂で、垢すりが有名だったが、今は一件も残っていないと思う。すべて、サウナ風呂に変わってしまったようだ。

- ぼくは、思いもかけぬ理由で1971年に会社を辞めることになった。しかし大変ツイていたのは、会社の方針で、香港の事務所を閉鎖して帰って来いという命令を受けていた時だったので、退職金代わりにそれまで使っていた事務所を会社から譲り受け、独立することになった。ぼく自身は夢にも思っていなかったし、考えてもいなかった起業である。両親はぼくに「一度入った会社は絶対に辞めてはいけない」ときつく言っていたので、ぼくには独立するとか、会社を変わるという気持ちは全くなかったのだ。事務所は12坪くらいのものだったが、4人分のスチールの机と、4台の電話機、コピー機、ソファーセット、Telex等がすべてそろっていたし、スタッフは僕以外に4名いた。昨日までは大阪の会社の駐在員事務所、今日からは荻野の会社、という実に安直な変身であった。そのせいか、スタートして6ヶ月ほどで、ぼくがやっていた商売(ニット工場への糸の販売)、特に僕が扱っていたタイプの商品が全く売れなくなったのだ。売れるのは、大手紡績が作る商品で、販売ルートが大手商社を中心にがっちり固められており、ぼくたちには入り込むスキが全く無かった。さあ、どうするか?ここから、七転び八起きのような人生が始まる。

70年代の半ばごろには、ニット工場原料の糸を売るのではなくて、彼らの作る製品を日本に輸出しようという試行錯誤が実を結び始め、何とか食っていける目安が付き始めた。

このころ、香港で一つのブームになったのが、日本人をターゲットとした『ナイトクラブ』であった。「銀座」「コリア・ガーデン」「銀馬車」「たそがれ」、「男爵」「美紀」といった日本人向けの名前がほとんどであった。60年代には、そういうバーはほとんどが灣仔に固まっており、チムサッチョイには簡単なバーがある程度だった。また、灣仔の何十件とあるバーは、ほとんどがベトナムの帰還兵をターゲットとしたバーで、日本人には近寄りがたい世界だった。したがって、60年代の日本人たちは、ほとんどが「ボールルーム」に行っていたのだ。これは、ダンスホールで、行くと叔母さんが席に案内してくれ、2枚ほどの紙を置いていく。それらの紙はいわば「女性のメニュー」で20名くらいの女性の名前と、それぞれの女性の寸評のようなものが書いてあるんだ。なまえはすべて源氏名で、寸評は全部四文字で「熱血女郎」「小夜小鳥」「南洋美女」と言った感じ。さて、女性が来ると、ホールに行って踊るか、話をするかくらいしかできないわけで、ぼくにとっては大変退屈な場所だった。ダンスホールなので、アルコールを出すことが禁じられていたから、出て来るのは中国茶のみ。それでも、そういうところの女性と結婚した人が当時は結構いたものだ。

日本料理店: 九龍に4店のみ、うち1店は、1966年の年末に閉店。香港サイドは日本人倶楽部のレストランでのみ日本食が食べられた。

香港で初めての海底トンネルができたのが、1976-7年だった。そして地下鉄も1979年にできた。この二つのインフラの完成は、それ以降の香港をの経済を、飛躍的に伸ばしたと言っても言い過ぎではないだろう。そういう香港の経済の発展の影響を受けて、ぼくのニットビジネスも順調に伸び、1980年の中ごろには、「対日ニット輸出」というカテゴリーではぼくの会社FENIXが金額でも数量でも一番となっていた。

1980年ごろに、取引の有ったそごう百貨店の外国部から「香港に店を出すことが決まった。ついては、初代社長が赴任するので、香港に関する基本情報の提供を始め、相談事等聞いてやってほしいのでよろしく」という連絡があった。桜井さんという方だったが、本当に腰の低い方で、ぼくのようなまだ30代半ばの若造のいうことを「そうですか、なるほど」と言って、きちんと聞いていただいた。また、「これからの百貨店は、商品だけではなくて文化も売るという部分が必要じゃないでしょうか、なんていう甘っちょろい話にも、耳を傾けてくれて、その具体案としてぼくが提案した「編み物教室」もそごう内にできたのである。また、「ニットの製造販売をしておられるのだから、うちに店を出されたらどうですか?と言って、メンズ、レディースで6~700s.s.の店を一つづつオープンすることになった。これが僕たちの小売りビジネスの第1号と2号店となり、その後の発展に繋がって行ったのだ。

1986年、ひょんなことからイタリアブランドの「PRADA」をやらないかという話が来た。聞いたこともないブランドなので、どうしよう、どうしようと迷って居たら、家内のいづみが「2年前にイタリアに行ったとき、そのブランドのバッグを買ってきた。とても使い勝手が良いバッグだと思うので売れるよ、と言った。そしてもう一言「もし、やるんだったら、私が店に入って売るよ」。この最後の言葉が決め手となった。そして、その通り、彼女が店長になって、売りまくったのである。しかし、よく考えてみると、彼女は学校を出てから一度も就職したことが無い、即ち働いたことが無い人だという事をぼくは忘れていたのだ。泊れ、「PRADA」は大成功となる。特に香港の返還の直前の1996年の売り上げはすさまじかった。その96年に、シティスーパーの一号店がTimes SQで12月に開店するのだが、初代社長の石川君は、「1200坪のウチの店の売り上げが、50坪のPRADAの売り上げとほとんど変わらない」と言って嘆いていたことを今でも時々思い出す。

英国は、植民地経営にはたいへん手慣れた国であったが、香港にも英国女王の代理として、総督が任命されて派遣されていた。最後の総督はChris Pattenという人で、大変まじめで且つ優秀な方だという印象がある。一度、ぼくたちの会でMr. Pattenをお呼びしたことがあるが、隋分多くの人が、政治家とは彼のようにあるべきではないか、という印象を持ったという。彼は、香港に来る前、「次の次の首相」と言われていたが、中国の人権問題を批判したために、中国に徹底的にボイコットされ、中英関係が彼の在任中ずーっとおかしくなり、彼自身が「自分が英国の首相になるという事はあり得ません」と我々にも語った。

英国は、香港に1997年の撤退まで常に英軍を置いていたが、その兵力の主力は、英人ではなくて「グルカ兵」であった。「グルカ」というのはヒマラヤの、インドとネパールの間にある地域で、そこの住民は勇ましく、一度戦うと相手を倒すか自分が倒れるかという決着が着くまで戦い続ける、と言われている。

英国が香港から撤収する時に、彼らの一部は故郷に帰り、一部は香港に残って、守衛や、ガードマンとして働いており、今でもよく見かける。

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