第39回香港和僑会
第39回
MGB Marketing Ltd. 代表取締役 武田頼弘氏
第39回香港和僑会
開催日
7月1日(火) 19:00 ~ 21:30
開催場所
日本人倶楽部
参加者数
40名
第39回香港和僑会
◇アンコールの効用
実は、「読書百遍、意、自ずから通ず」という言葉が私(上野)は大の苦手だった。
「わからないものを無理して100遍も読むなんて…」
本が希少な時代ならともかく現代は本があふれている。「文意のとれない難解な本と格闘するのは時間と労力の浪費。そんなものは駄作に違いないから、わかりやすい良書に読み替えた方が早い」などと考えていた。
あるとき本屋さんで、高額納税者No1の常連、あの斉藤一人さんの本をふと手にした。付録にCDがついている。10分足らずの幸福に関する短い話が収まっていた。そのCDは「100回聞きシリーズ」と呼ばれていた。
何でも、このCDの話を100回聞くとしあわせになるという。キツネにつままれたような気分だったが、「ものは試し」騙されたと思って100回聞いてみた。そして驚いた。
繰り返し聞くと(幸せになったかどうかは別にして…)わずか10分ぐらいの話でも聞くたびに新しい発見がある。聞き洩らしなどもあるが、聞く度に今まで思いつかなかったような新たなアイデアがわき出てくるのには自分のことながら驚かされた。
話を聞いて頭でわかっているからと言ってそれができるとは限らない。「頭でわかるだけでなく体にしみ込ませるためにいい話は何度でも聞くものだ。」とその時、改めて気づかされた次第。
今回の武田社長の話は、数か月前シンセンの和僑会での講演が非常に好評だったためアンコールに答えての再演である。
CDは手軽で便利だが、所詮は同じ話しか聞けない。生の講演なら同じ題材でもいろいろな料理の仕方が楽しめる。たとえ話を交えたり違った角度から話してもらったりということもできる。その点、今回のアンコールは同じ題材を違った切り口で聞けるという、ある意味で和僑会ならではの非常に贅沢な企画である。
しかもテーマは聞き手は根掘り葉掘り聞いてみたいが話し手はあまり語りたがらない成功者の“挫折のお話”。海外ビジネスや起業で過去の三度のビジネスでの失敗・挫折を乗り越えた体験を包み隠さず前回からさらに進化させたバージョンで語っていただけた。
前回のシンセンでのお話も聞かせていただいたが、実はその時、一つの疑問が心に疑問が引っ掛かったままだった。
「仲間から助け船を出してもらった話ならよく聞くが3回とも挫折時に思わぬ人から救いの手が差し伸べられた点、武田社長は非常にユニーク。普段、いったいどのような人脈構築を心がけておられるのだろうか?」
「いざというとき助けの手を差し伸べてもらえるような人脈を構築するには?」
「そんなことは自分で考えなさい」と言われそうな実に虫のいい疑問ではある。その疑問へも今回の講演は答えてくれた。曰く「名刺交換して枚数だけ稼いでもそんなものは人脈でも何でもない。大切なのは自分の想いとそれをいかに一期一会でアピールできるか」
後に師匠こと筒井和僑会会長もこんな解説を加えた。「なぜ困ったときに思いもしていなかった人が声をかけてくれるか?それは武田社長の人柄・普段の行動を見ていて『この人なら…』と思ったからに違いない。つまり自分、そして自分のやっていることは誰かが必ず見ている。世の中は実にうまくできている」と。
また今回もちょっと辛口の武田節が健在だった。
曰く「名刺を30秒で見つけられなかったら経営者はやめたほうがいいかもしれない」
(ごもっとも。しかしキビシ~!)
本に例えれば「今回は大幅に加筆を加えた改訂版、前著をお読みいただいた方にも参考になります」今回聞き逃した人は誠に残念。しかし武田社長は今後も機会があればお話をしていただけるという。次回の再改定版の講演には今回聞き逃した方も今回参加された方もぜひご参加あれ。
武田先生ありがとうございます。
今回の気づき「良書やいい話は気づきのヒントにあふれている」
(ここまでの文責 上野)
第39回香港和僑会 速記録
講師:MGB Marketing Ltd. 代表取締役 武田頼弘氏
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まず、経歴を失敗談を交えながら話したい。
私は55歳から起業した。
学生時代は学生運動もしたし大阪の宗右衛門町でバーテンダーのアルバイトもした、就職がなかなか決まらず、ようやく小さな専門商社に就職することができた。
当時は日本製は安かろう悪かろう。今の中国と同じ状況。爪楊枝からヘリコプターまで日本から輸出されたような時代だった。
新入社員ながらローマ経由エチオピアからアジスアベベまでいろんな国を行かせてもらいアフリカの20カ国セールスをして回り歩いた。
40年前の事だからクーリエなどのサービスはないので、バッグの中にいっぱい見本を詰めて手で持ってアフリカ中を半年間走り回った。
顧客リストもない、マーケティングもしていない中でどうやって売り歩いたかと言うと、到着の1日目はホテルに泊まり2日目にメインストリートを歩き、大きな看板に目を付ける。看板の大きな店なら金があるだろう。もしかしたら買ってくれるのではないかと思い、サンプルを見せて値段を言って販売を開始した。今にして思うと非常に原始的な売り込み方法である。
入社1年目だったので、プレゼンもスピーチも出来なかったが、かっこいいレポートを本社に出したい一心でインド人やアラブ人の社長が座っている店を訪ねて歩き、いろんな商品を売って歩いた。そういう毎日を約半年間続けた。私なりに一生懸命に仕事をして毎日を過ごした。
今のように携帯電話はないので、郵便局まで行ってテレックスで本社に報告する、大きな商売の時は翌日の3時に電話するとテレックスで連絡をして翌日社長に電話で相談した。
アフリカ時代に感じたことだが、貧乏な国で貧乏な人たちだが、底抜けに明るかったのが印象に残っている。夜になると子供がガソリンスタンドの下で勉強していた。家に電気がついていないせいだった。
ゲームもないし、戦争もないのどかな雰囲気だった。
アフリカでもいろんな国へ行った、空港に降り立つと、空港が日本の田舎の無人駅みたいな感じの所もあった。空港職員が一人、税関職員が一人、そこから車で夜ジャングルを抜けて町まで行ったものである。夜だからといって危険は感じられず安全面の心配はなかった。必死で危険を感じる余裕がなかっただけかもしれない。
とにかく仕事をするんだと言う一心で仕事をした。
お客になってくれたインド人の家庭にお邪魔もした。
仕事をしながら給料をもらいながら、現地に住む人たちとの交流ができた。
毎回半年大阪とアフリカを往復するパターンが定着し、アフリカとは4回往復し段々と慣れてきた。
結婚したばかりの年も例に漏れず新婚40日目にアフリカ出張することになった。新婚家庭の身の上であるだけに次に会えるのは半年後だと、涙の別れを告げて旅立った。
30歳になったころ電卓が出てきた。電卓が世の中を変えた。
ICが世界で初めて出来た。アメリカのシリコンバレーにも行った
コンピュータもあまりなかった。
キャノンの電卓を扱ったが、価格の下落スピードがものすごく速かった。
10万円が5万円2万円、価格は10分の一にまでなった。
原因はICの開発のスピードだった。
電卓の商売であれば自分で出来るのではないかと思い独立した。当時の会社の社長には申し訳なかったが辞めて独立した。
小さな事務所を構え、女性社員を1人雇いスタートした。
箱詰めして、直ぐにアメリカやEUに輸出、流れの速い商売だった。とにかく時間がもったいないと思った。家にあった100万円をわしづかみにして家内には「10万円置いておくからなんとかやってくれ。」、と言い残してヨーロッパ出張したこともあった。ヨーロッパへは余裕のない出張だった。
無我夢中の出張だった。
会社の経営がうまくいくと羽振りがよくなって、有頂天になり、宗右衛門で飲みにいったり、豪華な食事をしたりという生活になっていた。
本来の企業の精神を忘れていたのだ。
この会社は7年経営した。後半3-4年は大会社の競争もあり会社経営が悪くなった。
この時はTV巨人阪神見てもどちらが勝っているかも分からない、そんな有様だった。
そして結果会社は倒産した。
数千万の負債を抱え、家を売り車を売り、債権者とは何とか解決したのだが、大阪では商売ができなくなったので東京へ行った。
葬式みたいな悲嘆にくれた東京行きだった。
かき集めた50万円だけ持ってドライブしながら東京へ行った。
事務所を借りたがやる事はない。
そんな時に大阪の社長から「会いに来ないか」と声が掛かり、
話をしに行ったところ意気投合して就職する事にした。
就職した日は幸せな気分だった。
その会社は国内専門商社で非常に地味で厳しい会社だった。
土日曜はなかった。しかも毎月一回日曜日に棚卸がある。その日は朝6時に出勤し10時まで働いた。当時はコンピュータはなかったので帳簿は手書き。
お金が無かったので家内に弁当を作ってもらい、掃除のおばさんと一緒に食べた弁当の味がとても美味しかった。
自分でも頑張ったと思う。3-4年で取締役事業部長になった。だが、そこで、天狗に成り社長と口論し、辞表を出した。
会社を辞めたのはいいが、やる事がないのでマージャンをしていたら、マージャンのメンバーから「(やめた)会社の会長が会いたがっているよ。」と伝えてくれた。
それで元の会社の会長と会って、再入社しアメリカに3年間行く事になった。
仕事は期待したほどには出来なかったが、視野が広がった。アメリカは広い。考えも広くなった。高速道路だって4-5車線ある。アメリカの友人の家に招かれたら4,000-5000坪もありそこで鉄砲を撃って猟ができるほどなのだ。自分が住んでいる町内に黒人が住み始めたら白人が引越しして逃げていく。離婚も多い、知り合いの夫婦は夫は3回目奥さんは4回目の結婚だと聞いて驚いた。そこまでして相手に妥協せず理想の相手を探している。アルバムは夫婦別々に持っていて自分たちの子供だけの写真を持っている。金曜日は家族サービスや友人を招いてのパーティ、日曜日は離婚で分かれた子供に会いに行く。そんな社会だった。
日本では直接子供と話をする時間が無く子供のことで大事な事は家内から話を聞いていた。家族から離れて仕事一本だった。ところが、アメリカでは、私がステーキを焼いて家族が焼き上がるのを待っていたり、8時間も家族でドライブするなど、日本と全く違うライフスタイルを過ごした。
そのうち日本に帰国したのだが、何しろ社長と喧嘩してやめた出戻り、タダの平社員としてである、取締役でも事業本部長でもない。貿易部に配属されたが私ひとり。毎日夕方に成績発表をするのだが、私だけが0、年も一番上だが0行進を4-5ヶ月続けた。とても恥ずかしかったが、ここで辞めては何も残らないと思い会社に残った。ある日アメリカ時代の社長からサンプルが届き通販へ持って行ったところ1年間ヒット商品になった。経常利益が10億円のうち私が稼いだのが5億円。発表会が楽しみだったが、差がありすぎたので社長から言われて発表しなくても良い事になった。
半年後香港支店長として香港に赴任した。(15年前)円高の波に乗り業績は絶好調だった。売り先は日本の本社なので売掛金の回収の心配もない。仕入れは中国からだった。7年経つ頃には中国から直接貿易する時代になりゲートウエーとしての香港の役割は相対的に低下した。日本に帰国するよう帰任命令が出たが、ゴルフ会員権も買っているし、友人もたくさん出来ている。日本に帰ってもつまらない。荷物を香港に置いたまま日本に帰り「自分でやってみたい。」と理由を告げ辞表を出し香港に戻った。
当時55歳。ラマダホテルに250ドルで泊まり、友達を訪ね歩いたが仕事には結びつかなかった。友人のひとりから「一緒に出資しよう。何をするかは自分で決めてくれ。」と申し出を受け、友人が60万ドル、私が40万ドルを出して会社を設立した。友人のショールームを借りて家内と机を並べて仕事を始めた。ギフト商品を手がけることにした。理由はギフト商品なら自分が使わずに人に上げるから品質的に厳しくないのではないかと考えた為だった。東急ハンズで3,000円で売っている商品をその十分の一の300円で売ればお客さんも喜ぶはずだ。と考えてスタートした。半年間は赤字だったが注文が入ってくるようになった。最初に受けた注文のPO番号に1001番とつけた。0001番だと客が自分が最初の客だと悟られると思ったからだ。今日現在で2989番になっている。20フィートコンテナが売買単位なのでこれまでに約2000コンテナを出荷した事になる。現在では会社の資本金400万ドル、売上7,000万ドル、香港の従業員7名、中国の従業員7名(検品要員)の業容になっている。
《若い皆さんへのアドバイス》
一番掛けていたのは次の一手を考えていなかったこと。最初に起業した時、電卓で失敗したが、その時に中国に来ていたら売れていたかも知れない。大阪の国内専門商社に勤めていた時も香港支店長時代に準備をしっかりしていたら何でも出来ただろう。
ありがたかったのは困っている時に必ず声を掛けてくれる人が居た事。国内専門商社の社長と会長、投資してくれた友人。自分の予想外の人から声が掛かった。人脈は大切だ。
だが、人脈と言うのは“武田”と言う人間を知ってもらうことを意味する。“武田“はこう言うものを持っていると踏み込んで知ってもらう。これが人脈。感謝せねばと肝に銘じている。起業するのは自分が優れているからで金があるからではない。
しかしながら起業するには信頼できるパートナー、役員、優秀な社員が必要、そういう人たちが何人いるか、人に恵まれないと会社は出来ない。
それと何の為に起業するのか?純粋な今のうちに決めて欲しい。他人に言う必要はない。緒方さん(第33回和僑会講師を務めていただいたオールランドプロモーション社長)がお話の中で言っていたブラックジョーク「6時になってアメリカの奥さんは玄関の前で旦那を待っているが、日本人の妻は何とも思っていない。金が有ればいいと思っている。」アメリカの奥さんは旦那に帰って来て欲しいと思っているのだ。日本のライフスタイルは良くないと我々は気付くべきだ。台湾に駐在している日本人の友人が私に言った。「30年振りに日本に帰る。妻と老後を暮らす事が出来る。」30年間夫婦でありながら別居ですよ。他の友人で国際結婚をした人がいるが奥さんは香港に中々来ない。奥さんは自分の国にいる。だが、旦那は東京に住みたいと考えている。また、別の友人だが、クリスマスカードを10年間出し続けているが返事が来ない、医者をしている人で電話をして久しぶりに会ったら大歓迎された。病院は成功したが息子はサーフィンのインストラクターになっている。と愚痴をこぼす。「何と素直に育ったのか。自分の行き方を歩んでいるいい子じゃないか。」と話をした。医者は非常に慌しい生活を送っていた。ご飯を食べると医者は2階にある自分の部屋に行き、奥さんは1階の自分の部屋へ行く。医者は急患が来たら直ぐに病院へ駆けつけなければならない。息子はそれを見て自分で判断して自分の道を歩もうとしているのだろう。
成功している人はそれぞれドラマがあり苦労されている。とにかく奥さんには香港で会ってみて欲しい。奥さんは奥さんで家庭を守る使命感を持っているのかもしれない。子供を日本で育てたいと思っているのかも知れない。それでも1,2ヶ月に1回旦那のところに来たら、旦那も勇気付けられるだろう。2日でもいいからごはんを作ってあげたらいい。人生のシュミレーションを作ってみてはどうか?10年後はどんな生活をしていて、どんな家庭を持ち、どんな仕事をしているだろうか。
奥さんとは何かルールを決めておくと良い。例えば結婚記念日には食事に行く、1年に1回2人だけで旅行する。若い時に決めたルールを守ると年を取ってからが素晴らしい。
ビジネスは片思いの恋愛であると私は言っている。Mailでダメなら電話をすれば良い。電話でダメなら熱い言葉で声を掛ければいい。それが出来なければビジネスは出来ない。
日本一の温泉宿の女将さんの話、毎日宿泊されたお客さんに手紙を書いているのだ。ダメなビジネスマンが良く言う愚痴は「お客さんが良くない。」自分が自分の客になってみてはどうか。自分の会社からサービスを受けたいか?そう思えるように努力すべきだろう。仕事に頑張り過ぎないように。何の為に仕事をするのか、家族の幸せ追及か、自分の力を試してみたいのか、自分の名を上げたいのか、目的意識が無ければいくら仕事をしてもただ忙しいだけになる。価値観は一人一人違う。ポリシーも違う。人生は長い。私は生きがいを追ってビジネスをしている。一生で何度感動する場面に会えるだろうか。私はビジネスが感動を与えてくれると思っている。事業規模は小さいが大きくする積りはない。小さくてもいい、感動のツールとして会社運営をしているのだから。
《質疑応答》
Q1:①成功する資質について②旦那のドラマを妻がどう理解するかが話の中心だったが妻がドラマを演じるのはどうなのか?③武田社長は何の為にビジネスをやっているのか
A1:①自分が到らなかった為に何度も躓いた。そのたびに声を掛けてくれる人が居た。その人たちがくれたチャンスを蜘蛛の糸をつかむ思いでがむしゃらに突き進んできた。②夫婦と言えども別々の考え方を持っている。思い通りにやればいいのではないか。近くてもいいから2人で旅行するといい。旅行がいいのはレストラン、観光コースも2人で決めることだ。結婚ホヤホヤと同じ気分が戻る。③大阪の国内専門商社を辞めて香港で会社を興すまでの一時期はハローワークで18万円貰っていた。飛行機代が10万円だから差し引き8万円を貰いに日本に帰っていた。耐え難い時間だった。だが、家族の命を守らねばならないと言う想いがあり、自分は落ち込めなかった。
Q2:アフリカへ単身でセールスに行かれ実績を上げられているが、セールスに秀でるコツは?特に外国人に対するセールスについて?
A2:当時は20代だったし情報もない。破れかぶれだった。人と話をするのは好きだったので、物を売るのではなく世間話をして仲良くなってその中で売って行った。最初から売ろうとはしていない。大阪本社の社長にかっこいいレポートを出したい一心だった。
Q3:①アフリカでSalesできた人がなぜ日本で0行進が続いたのか?②ギフト商品は人に上げるものだから品質が甘いだろうというのは目の付け所が流石だと思った。品質との折り合いをどの辺りにつけているのか?③次の一手の仕組のコツ
A3:①0行進した時はアメリカの駐在から帰ったばかりでアメリカ関係の仕事しか残っていなかった。ヨーロッパは別の社員が担当していた。アメリカに居て商売が無かったので日本に帰ってもアメリカ関係の仕事が無かったということだ。②日本のbuyerは品質に対して非常に厳しい。ヘアブラシを出荷して虫が混入していたからと言う理由で50円/個の検査料を取られたことが2回も3回もある。売上金額が少ない商売で検査料を250万円取られるのは悔しくて涙が出るほど辛かった。それからは全量検査を行う事とし、第三者機関にも検品させるようにしている。検査料はUSD0.08/個、年間でUSD15万掛けている。費用全額がUSD60万のうちで一番予算を割いているのが検品費用になる。③絶好調の時に自分が扱っている商品を他社に輸出するとかなぜ考えなかったのか。有頂天になっただけだった。絶好調であればあるほど次の一手を考えておくべきである。
Q4:①目標の立て方②何の為に会社を経営しているのか③困った時に声を掛けてくれる人が現れているが人脈やパートナーの作り方に付いて
A4:①特にない。何も無いところから始めた。あったのは利益を上げたい、人並みの生活をしたい。と言うことだけだった。売上/利益はあまり考えた事はない。②家族の命を守ること。感動するツール。こうして大勢を前にして話をすること自体私は感動している。ビジネスをしていなければこう言う体験はなかったはず。③日ごろ誠実に信ずる道をやっていく事が大事だろう。相手が自分と会って“何か感じるものがある”と思ってもらうこと。それがビジネスをする上で大事なのではないか。
(速記 By拙速で候)