第31回香港和僑会


第31回

フェニックス集団会長 荻野 正明 氏

第31回香港和僑会

開催日

11月1日(木) 19:00 ~ 21:30

開催場所

日本人倶楽部

参加者数

80名

第31回香港和僑会

「うわ、これは凄い」

話が始まったとたん、ただただ、驚かされた。

漠然と聞くだけでなく議事録のために一心にメモを取っているといっそう伝わってくるものがある。

「このお話はこの場のために事前に考え抜かれて周到に準備されている」ひしひしと感じた。

さすがは大成功者。駆け出しや新米の起業家のためのお話でも手を全く抜かない。そればかりか、起業家のために、和僑会のために、今まで語ったことのない成功のための“考え方‘を熱く語ってくれた。

今回参加できなかった人はこのライブな熱気とともにこのメッセージ聞く機会を逃した。本当に残念なことをしたと思う。(毎回いえることではあるが・・・)

ただし、不幸中の幸いは今回から強力な助っ人『拙速で候』さん(ペンネーム)に議事録書きを手伝ってもらえたこと。さすがは正確でしかも早い議事録作りでは和僑会で右に出るものなし。

「手を加えて欲しい」といわれたが修正したのはタイプミスぐらいのもの。素晴らしい出来栄えとなっている。

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第31回和僑会講演会 速記録

講師:フェニックスグループ会長 荻野正明氏

香港に来たのが1966年8月なので、もう41年と数ヶ月になる。

九龍半島から見える香港島のビル群のうち当時から残っている建物はほとんどない。ビルの95%ぐらいは新しく建ったものだ。

仕事をしていて感じる変化は情報の流通。

IT、パソコン、インターネット、e-mail

当時からは想像できないほどものすごい勢いで情報が流れている。

香港に来た当時の通信手段は主に手紙、香港から本社に届くまでに3日本社から返事が返ってくるのに3日掛かっていた。

電報も使用したが1文字いくらで課金され非常に高価であり、概要だけ記載し文章の締めくくりは“イサイフミ“とするのが常であった。

大手商社、銀行にはテレックスが引かれていて、導入していたが、今から比べると誠にかったるいものでしかなかった。

国際電話は1分700円も掛かりしかも電話局の交換手に時間指定で申し込みをするスタイルだったためその時間には必ず電話の前に居なければならず、みだりに使用できなかった。その後FAXやパソコン等々が出現してきて情報のスピードもボリュームも格段に向上した。この情報漬けにどう耐えるかがポイントだろう。

41年前の香港のビジネス界の特徴は中小企業が多かったことだろう。

利益は“親方総取り“みたいなところがあり従業員の給料にはほんのわずかな残りが振り向けられる程度であった。

だから、従業員の大多数が起業を志すのが当時の風潮だった。それが今では起業を志す者は10人に1人程度であろう。

私は香港に来て4年で起業した。4人の会社だった。事務所は408sqf日本風に言うと12.52坪の広さだった。メンバー全員を社長にしてやりたいと考えていたが社長第一号が誕生するまでに10年掛かった。これがサテライトカンパニーの初めである。現在ではサテライトカンパニーは30社を超えるほどにまでなっている。

その第一号であるがその男を社長にするのに社内で反発が多かった。その男は夕方になると決まって居眠りをしていたからである。そんな人間になぜ起業の機会を与えてやるのか?が反対の理由であった。だがこの男が居眠りするのには実は訳があった。実家が上海街で喫茶店を営んでいたのだが、父親が急逝したあと弟や妹が店を切り盛りしていた。男は会社が終わったあと、店の手伝いをし、現金を勘定する、帳簿を整理してから寝るのだが夜中の3時ごろになっていた。翌朝会社に出勤するがどうしても夕方になると睡魔に勝てず居眠りをしてしまうようになっていたのだ。私の会社では婦人服を主に扱っていたのだが新規事業として紳士物も扱うようになっていた。その担当者がこの男で商売も上手であった。この男にはこのような生活から抜け出させてやりたかった。喫茶店は弟か妹に任せて独立するように、と何度も話しをしていた。資本金は10万ドル、男が3.5万ドル、会社が6.5万ドルそれぞれ出資した。この割合はたまたまこの男の持ち合わせ金額が3.5万ドルであったのでそうなっただけの話だ。会社としては新会社の運転資金の面倒まで見た。暫くは利益を内部留保として資本金を積み上げたので配当は無く本社と同じぐらいの3千万㌦以上の資本金にまで成長した。

City Superは西武百貨店の香港企業への身売りが決まった時にスピンアウトした6名の従業員が私のところにやって来て「こう言うのをやりたい」と案を出してきたのが始まりだ。この6名と私を加えて“7人の侍“と称してがんばってきた。初代社長が急逝し2代目社長には香港人が就任している。

ところでフェニックスグループについてだが、日本人は5人しかおらず役員も日本人の私を含めて2名だけ。CEOも香港人に譲っている。

サテライトカンパニーの社長も、日本とミラノは日本人社長だがそれ以外は香港人、シンガポール人等々となっており、このグループを日系企業という言い方はあたらない。最近気に掛かっている事がある。

柔道にせよ、詩吟にせよ、華道、茶道を学ぶ際には先生に付いて先生の言うとおりにマネをすることから始まる。

だがビジネスの世界では、そういうことを見ないし、聞くこともない。

昔、剣には免許皆伝と言う制度があった。師匠が「お前には教えるべきことは全て教えた、後は自分の工夫を付け加えろ」そう言う意味合いだが、ビジネスの世界にはこれがないのだ。

商売の世界ではハードのコピーは盛んだが、ソフトのコピーはない。もっとも複数の人物を師匠に見立てて良いとこだけを真似する事はできない。良い所も悪い所も全て学ぶ必要が有る。そうして初めて考え方が分かると言うものだ。なぜなら発想はいい所から出てくる時もあるし、その人の悪いところから出てくることもあるからだ。

私には過去の失敗がいっぱいつまっている。何でも聞いてくれればいい。意見が出てくる。しかもタダだ。だが、このコンピューターを使うヤツは少ない。

廊下で会っても目を逸らす、食事の席では私の両側は常に空いている。夢の無いローカルに多いのだが、このような姿勢では成功のチャンスはまずないだろう。20代30代の頃は、私にも回りの香港人にも夢と希望があった。 失敗に対する考え方について、この半年、大手商社とビジネスの話をしてきた。資源相場の上昇から、この商社は莫大な利益を上げている。4,000億とか5,000億の規模だろう。会社からは10年後20年後30年後の基礎作りのために、M&Aと投資のための案件を出せと管理職に号令が掛かっている。

ところが、審査会に掛けられるとアラ探しになり、Trialの大部分が”NO”になってしまう。審査会が求めているM&A案件とはメチャクチャ安全でメチャクチャ利益が出ている企業を求めているのだ。

そこで商社マンに言ってやった。「どうせ書類しか見ないのだから、水増ししてでも完璧な書類を作ればいい。3年先のことなんて誰にだって分かりゃしないんだから。」

むしろ、利益が出れば“失敗枠”ができたと考える方が良い。単純な失敗が許されないのは勿論だが、取り組んだ新規事業が失敗したケースについて、原因の解明をあやふやで終わらせているからいけないのだ。事業をスタートさせた人、事業を継承した人、事業をクローズした人関係者全員を集めて原因を究明して文書に残すべきだ。

失敗をしない事を考えるよりかは如何に失敗するか、即ち命取りにならないようにするかを考えるべきだろう。

固まった利益が出たら、一部を失敗準備金に振り向けるべきだろう。

プラダの総代理店を始めるときのエピソードをご紹介しよう。

プラダのようなカバンを作る会社は1社だけだった。